歴史力を磨く 第27回

人種平等を訴えた日本


第一次大戦中の1918(大正7)年、アメリカのウィルソン大統領は戦争講和のための14カ条の原則を発表し、その中で「民族自決」と「国際平和機構(国際連盟)」の設立を提唱した。この「民族自決」とは、各民族が自らのことは自ら決定できるという原則に基づく、民族の平等と人種の平等を意味するものと理解された。

そこで日本政府はこれに呼応して、第一次大戦のパリ講和会議に全権団を派遣し、国際連盟創設のための委員会に「人種差別撤廃案」を提出した。それはいかなる国も人種や国籍の別を理由に法律上あるいは事実上何らの差別を受けないことを約束するというもので、今日からすれば当然の内容であった。この提案は、欧米の植民地体制に苦しむ人々に深い感銘と希望を与え、日本全権団に対しては、感謝と激励の手紙が殺到したという。

しかし、当時多くの植民地を支配する欧米諸国にとっては甚だ都合の悪い提案であり、当然のように強硬な反対意見が出されることになった。事実アメリカでは、上院で「人種差別撤廃提案が採択されたならば、アメリカは国際連盟に参加しない」という決議まで行なわれた。同時に当時の国際社会では、「日本は白人を中心とする世界秩序を混乱させるために、敢えてこのような提案をしているのではないか」という疑心暗鬼さえ持たれたのである。

それでも日本は諦めずに、国際連盟委員会の最終会合で、連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という文言を入れる修正案を提案した。この場でも反対意見が出されたが、日本は「これは理念を謳っているもので内政干渉ではない。これに反対するのは他国を平等と見ていない証左だ」と主張して採択を求めた。その結果、最終票決では11対5の多数で日本の提案は支持されることになった。

だが、議長だったウィルソンは、「全会一致」の原則を盾にこれを否決するという決定を下した。それは、ウィルソンが提案した「民族自決」とは欧米人の間にだけ適用されるもので、黄色人種や黒人はその範疇に入らないという真意が露呈したも同然の決定であった。

その後、人種の平等が国際社会の原則となるのは、日本がアジアの植民地主義を武力で打ち破った後の1948(昭和23)年の世界人権宣言まで待つことになったが、その実現は現在まで世界が目指す課題であり続けている。しかし、人種差別の撤廃という崇高な理念を、国際会議に於いて初めて訴えたのは日本であったということは、記憶されるべき事実である。