歴史力を磨く 第18回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕

「信義」を重んずる心

日本文明は他の世界主要文明と異なり、「一つの国で一つの文明をなしている」という類例のないケースだとされる。畢竟日本にとっての国際関係は、全て異文明との対峙を意味していた。そのような宿命下での外交に於いて、昭和天皇が重んじられていたのは、国際社会に於ける「信義」というものであった。

昭和16(1941)年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻した。この時、松岡洋右外相は、2カ月前にスターリンと日ソ中立条約を結んだばかりであったが、同盟国ドイツがソ連と戦争を始めた以上、日本もソ連を攻めるべきだと昭和天皇に上奏した。この時、昭和天皇は松岡が日本外交の基本精神を踏み外しているとして激怒されたという(『独白録』)。

一旦結んだ条約は是非とも守らなければならない。日本の法治主義という伝統は「言葉にした約束は必ず守る」という精神によって支えられており、これを踏みにじるようなことがあってはならない。この信念が昭和天皇の国際関係観の中核にあった。

この前年の9月に締結された日独伊三国同盟の際にも、昭和天皇は強い懸念を示されていた。天皇が三国同盟に躊躇された理由の一つは、当時の両国は共に民主主義を蔑ろにするファシズム国家で、立憲君主国日本が歩を揃えて行動すべきではないとのお考えにあった。と同時に、ドイツはロシアに次いで最も頻繁に同盟や条約を破ってきた国であり、条約破りの常習国家であることを心配されたのである。

真珠湾攻撃の3日後の昭和16年12月11日に日独伊三国が結んだ「単独不講和の確約」の協定では、その心配が現実となった。それぞれ単独では講和をしないというこの約束を日本は最後まで律義に守り抜いた。ところがドイツは、スターリンと講和のための秘密交渉を1943年から44年まで何度も試み、更に英米両国とも単独講和をしようとしていた。イタリアに至っては、1943年に連合国がシチリアに上陸すると、自国内のドイツ軍にまで攻撃を加えたうえでムッソリーニを殺害し、「自分達も今や連合国の一員だ」と言い張った。日本はそういう国々を同盟国にして、第二次大戦に向かったのである。

たしかに当面の戦略的必要性から条約を破る、あるいは同盟関係を反故にすれば、目先の利益は確保できるかもしれない。しかし一旦国家の基本を踏み外せば、その後の国家の信頼は失われる。日本が誇るべきものは、軍事力でも経済力でもない。まさに「信義」というものが日本外交の財産であると、昭和天皇は示されているのである。その教えの結果、現代の日本は、欧米をはじめ東南アジアの国々から中東諸国に至るまで、「日本は敗戦国家ではあっても、必ず約束は守る国だ」という深い信頼を得ている。

何よりも「信義」を重視された昭和天皇の御心と倫理観は、国家として受け継いでいくべき不変の精神であろう。